セックスが小説の中の「愛」を豊かにしてきた

愛と性については聖書のなかにも語られているほどですので、文学の歴史とは切っても切れない関係にあるのではないでしょうか。愛のあるセックス、愛のない性行為、プラトニックな愛。異性愛、同性愛、あるいはバイセクシャル、近親相姦。

性的不能により愛をあきらめるという物語もあります。今ならバイアグラで解決できそうですが、ED薬のなかった時代には、不能による苦しみも大きなテーマでした。さまざまな愛の形が、小説の中で語られています。人の生き方に大きく関わるものだからでしょう。性愛のありようをテーマにした物語を読むことは、人生を考えることと深く関わってくるはずです。

日本では古来より語られてきた性

日本でもっとも古い歴史書である「古事記」は、セックスシーンから始まります。神の子であるイザナギとイザナミは子供をつくろうとしますが、つくり方がわかりません。そのためお互いの性器を,見せあい研究します。聖書のアダムとイブが、最初は裸であることを意識しなかったことと類似しています。

源氏物語においては性がメインテーマ。イケメンの遊び人である光源氏は、次々と女性と性交渉をもちます。このような赤裸々な物語を書いたのが女性であったという点はとても面白いことです。

我が国においては、性を語ることが古くはタブーではなかったのではないでしょうか。あからさまではないにしても、セックスについて歌った短歌も数多く残っています。日本人は「性」を大切にしてきた民族なのでしょう。

井原西鶴の打ち立てた性文学

江戸時代には井原西鶴が官能的な大衆文学を確立します。「好色一代男」は、きままに暮らす好色な男の生き様を描いた作品です。単に性交渉だけを描いたのではなく、男の生き方のモデルをつくりあげています。「好色一代女」は女性視点で性の遍歴を描いたものです。

西鶴以前にもおもしろおかしく生活を描いた「草双紙」とよばれる庶民文学がはやっていました。そのベースの上に、井原西鶴は人物描写やストーリー性のしっかりした小説を著わします。西鶴の登場により、ハイレベルな「草双紙」は「浮世草子」と呼ばれるようになり、従来型の低レベルな「仮名草子」と区別されるようになります。

日本文学は伝統的に性表現と深い関係をもって発展してきたといえるでしょう。それは、愛においては性がとても重要なことであると、日本人が深く理解してきたからにちがいありません。愛と性に関わる小説を読むことは、とても日本人らしい読書なのではないでしょうか。